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    • 2013.08.31 Saturday
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    刀伊入寇―平安政権の国防無策

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      葉室麟の『刀伊入寇』を読む。

      葉室さんの作品ではほかのものの方がグレードが高いかもしれない。それでもこれを読んだのは井沢元彦さんとのからみである。

       

      井沢さんは『逆説の日本史4 中世鳴動編』において、平安時代の中ごろの1019年3月末にあったこの侵略事件に言及している。

      刀伊は没落した渤海国の末裔で女真族である。

      彼らが博多を襲ったとき大宰府権帥藤原隆家がリーダーとなって奮戦した。隆家は叔父道長との朝廷を舞台にしての権力争いに嫌気がさし、本来武道に秀でていたこともあって自ら望んで大宰府へ赴く。刀伊が侵攻してくることも予測していた。

      これに対して平安貴族政治は恩賞を与えなかったことについて伊沢さんはその非を糾弾している。また藤原政権の国防意識の希薄さを嘆いている。

       

      葉室さんは恩賞に触れ藤原隆家をして次のように言わしめる。

      「刀伊が参った時、戦をいたす許しの伺いを京の朝廷に出す暇はあるまい。されば、われらは京の許しなく敵と戦うことになるであろう。それゆえ、朝廷は恩賞を出し渋るはずだ。京はさようなところだ」

      これは井沢さんの歴史認識と符号する。

       

      また刀伊を迎え撃つにあたり隆家は次のように言う。

      「神々も御照覧あれ、われらこの国の雅を守るために戦わん」

      井沢さんはこの「雅」によって国が守れると考えている平安時代の為政者、とりわけ藤原公任と藤原行成が共にこの時代を代表する歌人であったことを取り上げ、「言霊」で外敵を追い払えるという考えの危なさを説く。

      葉室さんはそのへんの経緯を知っているかのように、隆家という軍人が日本のよき言霊を守るために戦うとする。井沢さんを読んでいるとこの皮肉な味付が興味深い。

       

      葉室さんの奇想天外さは、攻めてきた刀伊の若大将が自分の息子であること。かつて日本に忍びこんでいた忍者(特殊工作員)の女がある夜、隆家と契ってできた子。女は勇猛果敢な隆家の血に惚れて女真族の未来のためにそのリーダーになれる男子を得ようとして隆家と寝る。

      隆家ははじめそう乗り気でもなかったが女の寂しげな影と笛の音にひかれて思いを遂げさせてやる。

       

      隆家は刀伊の若大将にかつての女の目を感じて斬れず逃がしてやる。

      葉室さんはロマンティストである。

       

       

      屁理屈に屁理屈重ね戦かな

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        アメリカが化学兵器を使ったとするアサド政権に対してシリアに軍事介入しようとしている。イギリスも政権側は軍事介入しようとしたが議会の猛烈な反発にあっている。

        軍事介入は正義のように見える。

        反面、化学兵器や細菌兵器や毒ガスなどを使わない通常火器・火薬戦争ならかまわないですよ、というふうに聞こえてならぬ。

         

        化学兵器や細菌兵器や毒ガスよりもっと凄い原爆をアメリカは一つの国に立て続けに2度も落した。

        そういう国が化学兵器を使ったから懲らしめてやるというのも妙な論理だ。

        大量破壊兵器を保有しているという理由でアメリカはイラクへ進攻したが、結局それは発見されなかった。

        このときの参戦には石油利権がからんだ。

         

        今度のシリア侵攻にどんな利益があるか知らぬが、機関銃を取り締まるために戦車を繰り出すみたいな感じ。

        一つの悪を制するために別の悪を繰り出す。

        悪と悪がごっちゃになって大きな愚になる。市民がまたばたばた死ぬ。死体は置き去り。

         

        アサドもどうしようもない奴で処刑にあたいするが、オバマだって思ったほど利口じゃない。大義を振りかざすときあまりいいことは起きない。特に戦争の場合。

        戦うために為政者はみな屁理屈をこねる。

        荒っぽい打開策でないひそかな知恵はないのか。

        アメリカ映画では敵国の要人暗殺などよくテーマにする。アサドに絞った作戦の展開などしてこなかったのか。それを匂わせて脅しをかけるとか裏の工作はしていないのか。

         

        表だった軍事侵攻は正義というメンツを売り物にした点数稼ぎなのでは。

         

        スカイツリーのわきで歌う

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          ゆうべ元新聞記者Sさんと押上で会った。

          内堀先生の新聞掲載原稿を入力、整理してくれた彼にゲラを渡し、出版の前祝いということになった。

          地下鉄押上駅を出て東京スカイツリーを仰ぐと首が折れそうになる。近づきすぎて上が見えないのは富士山五合目で頂上が見えないのに似ている。

          巨大は塔に圧倒された。

           

          焼鳥で一杯やって、ぼくは飲めないので焼うどんを食べて、曳舟の「蘭丸」というカラオケの店へ入った。カラオケで歌うのは何年ぶりか。

          飲めないぼくは妙に込み入った話をするより歌うほうがいい。

          Sさんとぼくと、先日死んだ藤圭子は同い年の62歳。いきおい藤圭子追悼となった。

          まず「圭子の夢は夜ひらく」に挑んだがむつかしい。この歌は圭子の生れ育った事情の凄みとあの歌唱力あってのものだ。

          自殺してはいけないなあ。本人はよくても遺された者にとって衝撃が大きすぎる。それも背負って生きていかなきゃならない。そんなことを考えるゆとりがあれば自殺はしない。自ら命を絶つのが動物でない人間。哀れでならぬ。

          橋幸夫の「潮来傘」、舟木一夫の「絶唱」、ブルーコメッツの「ブルーシャトー」と高音の伸びで聞かせる楽曲を歌っていると、ぼくらより少し上の男性客二人が来て歌いだす。

          一人が五木ひろしの古い歌をうたったのでぼくが「細雪」でつないだ。これも高音部が好きだ。

          若くないママが「居酒屋」を歌ってくれるというのでそれも歌った。あまり若くてきれいなホステスだと緊張してしまうから、よかった。

           

          講演会で歌おうと思っている三波春夫の「チャンチキおけさ」を練習するタイミングがなかった。残念。

           

          押上、曳舟といったところは本をつくらなければ決して来なかったであろう。

          東京スカイツリーを実際に見に来ることもなかったかもしれない。藤圭子を歌うことも。

           

          俳壇の諸作9

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            「鷹」2013年9月号より転載

             

            教科書の目高と君は大分ちがう 日川 桃子

            第十六回俳句甲子園東京大会より(以下三句)。

            「教科書の目高」という導入で作者が生徒であることがすっとわかる。また目高を近くの川などで日常的に見ることのできぬ都会に住んでいることも。自分の生活を言外に感じさせつつ季語に新たな光を与えた語り口がういういしい。作者は東京家政学院高校所属。

             

            一匹の目高やドアノブが回る 横森 太陽

            ほかが死んで残っていると思われる水槽の一匹の目高。それを見ているときドアノブが回る。なにか怖いことが起こりそうな予感。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」みたいなスリラー的世界を鮮やかな二物衝撃でものにしている。作者は立教池袋高校所属。

             

            パセリ食ふ別に怒つたわけぢやない 山本 卓登

            皿のわきに置かれたパセリは目を楽しませる添え物でありほぼ残される。それを食べたことで胸のうちを述べている。「怒つたわけぢやない」と否定することでかえって怒りを強調する技が光る。作者は開成高校所属。

             

            初蝶のもみ出されたる日差しかな 檜山 哲彦

            「りいの」五月号より。

            写生は言葉の発見とよくいわれるが「もみ出されたる」がまさにそう。この言葉が基点となり蝶が木陰にいて日の当たる空間にさっと出てきたことが一瞬にしてわかる。初蝶と言葉と光が混然一体となっている。

             

            色萎えて水漬きし葦や春の沼 増田 幸子

            同号より。

            ひとつの景が冬と春というふうに二つの季語を有することはよくある。この句がそうで沼は春になったが枯れた葦がそこかしこにある。実直な作者は葦から枯れの字を巧妙に消し正確な描写をして見せた。自然を書く一つの手本であろう。

             

            オーロラを待ちけり暖炉爆ぜにけり 杉原 祐之

            「山茶花」六月号より。

            アラスカかフィンランドか北の寒いところでオーラロの出現を待っている。「オーロラを待ちけり」より「オーロラを待ちをり」のほうが自然で収まりはいいだろうが、「暖炉爆ぜにけり」にはオーロラを待望する気持ちがあふれている。

             

            伊勢海老の鍋蓋南無と圧へをり 安西 泰子

            「澤」六月号より。

            「南無」がスパイスのように効いている。仏・法・僧に帰依するという意の仏教用語がオノマトペ的に気を発する。おさえたものが伊勢海老であるという豪華さ、それを哀れに転じたがうまい。

             

            新宿は灯の浮島よ春の雪 世古 諏訪

            「駒草」六月号より。

            歌枕の乏しい東京において新宿は割に詠まれる地名。福永耕二の<新宿ははるかなる墓碑鳥渡る>、辻内京子の<新宿は仰ぎ見る街花粉症>などがあるが、この句はおそらく高層ビルから俯瞰して夜景に酔ったのだろう。プラスのイメージで先行句との違いを際立たせた。

             

            常念岳と幾度も言ふ鴨引く日 小泉 計

            「椎」六月号より。

            おもしろい切り口の句である。鳥が帰っていくという句において上五中七の措辞を見たことがない。むしろ鴨を使って作者の住む土地への愛着と常念岳へ寄せる気持ちを書いた句といえる。

             

            白雲のふくるる早さ松の芯 きせち あや

            「泉」六月号より。

            やわらかくて茫洋として動くものとしっかりと輪郭のあって動かぬもの、また白と緑の対照が鮮やか。これだけのことで自然の織りなす玄妙なる味わいにひたることができる。

             

            櫛の眼のしかとこまかく蔵に春 鳥居 真里子

            「俳句」六月号より(以下三句)。

            旧家のおごそかな蔵を想像する。作者の母ないし祖母といった血縁者の遺品とおぼしき櫛。中七のていねいな描写は蔵に流れている長い時間を感じさせる。暗い蔵の中で感じる春は櫛の情念と相俟ってなやましい。

             

            夕映の窪みに村や春の富士 中西 夕紀

            東山魁夷の絵を言葉にするとこんなふうか。厳しい描写というより物の本質をとらえてやわらかく象徴化する技法。上五中七の言葉の斡旋はそんな感じで、目というより心象にはたらきかけてくる。やわらかく幸せな風土はまほろばと呼びたいような味わい。

             

            全身の毛を抜け出せぬ毛虫かな 中村 正幸

            毛虫が急いでいる。尺取虫ほどではないがからだがうねっている。たしかに毛虫を見ているとその動きにより毛が抜けはせぬかと思うことがある。そこへ作者は「毛を抜け出せぬ」と切り込んだ。穿った見方はものまねにおけるデフォルメの芸に通じ、毛虫の動きをみごとに再現している。


            芽の伸びゆく先

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              ブラックベリーの苗木を毎朝見ている。

              真ん中にすっと立つ太いのが主力と思いきや枯れはじめた。この茎はもう死んだのではなかろうか。

              そのうち右の茎がぐんぐん右へ伸びていき、そのまま行くと思っているとぴたりと止まった。

              しばらくの停滞後、左へ向かって勢いよく新しい蔓が伸びて葉をつけはじめた。

              3本の茎をもつブラックベリーに全体をとりしきる「意思」を感じてならぬ。

              その「意思」の中枢がどこかにあるのか。動物なら頭という神経の集中する場所を思い、それを割って中がどうなっているのか調べたいという発想になるが、植物にそういう中枢を思いにくいのでいよいよ神秘的である。

               

              この新芽をほれぼれと眺めていて「ふとぶとと南瓜の蔓が歩道まで」という句に対して行った添削は間違いであったと思った。

              一読したとき「ふとぶと」という言葉があったか気になって『広辞苑』を引いた。載っていない。載っていないことをいぶかしみつつ「太やかに」として語順まで変えた。

              提出してからしっくりこなくて『新潮国語辞典』(第二版)を引いたらちゃんと「ふとぶと(太太)」が出ているではないか。収録していて当然の言葉だ。

              救いはこの句の作者に、「このままでもいいですが」と言い、「ぼくの辞書にはないようなので」と断りを入れたことだ。

               

              言葉はブラックベリーの新芽みたいなものだ。

              どこから飛び出してどう伸びていくかわからない。ブラックベリーは俳句作者だ。自分の表現欲求を自分のしたいようにやってくる。

              その出方に外の人間がはじめからああせい、こうせいでは新芽を歪める。

              しばらく観察して勢いを楽しんでいるのがいい。

              辞書というのは添え木かもしれない。蔓を伸ばし保護するものであるが蔓の行く先を規定する。

              添え木が要るか要らないかも考えなければならぬ。

              「ふとぶとと南瓜の蔓が歩道まで」には添え木は要らなかっただろう。添削は控えめがいい。

               

              ブラックベリーを毎日みて言葉の奥行、添削の奥義を考えることとする。

               

              鷹中央例会2013年8月

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                句会はいつもはっとすることが待っている。

                きのうは五人会メンバーの長沼光子さんがぼくのいつも座る席の隣に来ていたこと。忙しくてここへは出られないと聞いていたので驚いた。

                 

                景山而遊さん

                もう一つは月光集作家景山而遊さんが雛壇席にいらしたこと。ぼくが中央例会に出た中でこの御仁にまみえるのは初めてだった。景山さんというと<へうたんのくびれの上と下とかな>をすぐ思い出す。藤田湘子がこの飄逸さを激賞したことも。このころから景山さんってどんな風貌の方かと思い続けておりきのうは記念すべき日になった。

                今月鷹に発表した<炎帝に杖いつぽんの男かな>も素朴でよかった。

                 

                左:小川軽舟主宰 右:辻内京子さん

                さらに、いつもの司会者碾吠埆個垢不在で代りに辻内京子さんが担当した。

                彼女は主宰が採らない句について複数の月光集・日光集作家にコメントを求めるので時間大丈夫かと懸念していたが、ちゃんと5時でおさめた。お見事。

                投句者が223名であったことも合評がゆっくりできた理由。暑さのためか例月より約20名参加者が減っていた。このくらいの人数がいい。

                 

                主宰に来年、府中市生涯学習センターの俳句講座の講師を担当することになったことを報告し「よろしくお願いします」と激励された。奥坂まやさんからは「がんばってね」と。

                ぼくをこの仕事に就けるために関係機関との間を取り持ってくれた島村銀大夫さん、横沢哲彦さんは講演会に来てくれるらしい。また他の鷹の仲間も。

                1時間をもたせるために聴衆に質問を投げかけたりして講演者がただ話すという一方通行を避けたいと思っていたのでありがたい。「講演者を困らせる質問していいの?」とからかう剛の女性もいて心強い。

                 

                今日は主宰選に入った。

                  肥えて背のひらたき牛やいわし雲 わたる

                主宰いわく「上五中七しっかり見ている」。

                 

                ツキがあった前橋育英

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                  第95回全国高校野球選手権大会、前橋育英が優勝した。

                  このチームには神の加護があるのではないかという気がした。

                   

                  準決勝の対常総学院戦。
                  9回裏ツーアウトを取られ最後の打者がセカンドゴロでゲームセット……という次の刹那、二塁手が大きくファンブル。それから塁上がにぎやかになり逆転サヨナラ勝ち。

                  ツキというのか相手に助けられた。
                  常総学院はサヨナラヒットの打者は当然敬遠してフルベースにしてからと思ったが勝負に行った。そして打たれた。野球に<たられば>はないものの常総学院の監督の勝負勘が鈍かった。あそこは満塁策しかないだろう。

                   

                  今日の延岡学園戦は3点を先行され追いつき勝ち越す。

                  9回裏、延岡学園先頭の浜田が死球で出塁し、田中が中前打で無死一、二塁の好機を得た。

                  このとき重本監督が経験の浅い選手を代打に出した。

                  これが謎。優勝するために闘っているのではないのか。ならばなぜレギュラーより力量の劣る選手を出すのか?

                  バントがうまいのかと思ったら打って出て凡フライ。

                  これでアップアップだった高橋投手を助けてしまった。
                  このワンアウトで前橋育英が逃げ切れるとみたらそのとおりになった。

                   

                  ぼくは高校野球ファンではない。

                  プロ野球のほうが好きだ。それは高校野球には不可解な戦法が目立つことも原因だ。

                  勝つためになにをするかということが徹底されていない。

                  延岡学園重本監督は一番大事な勝利の機会で、補欠選手に大舞台の雰囲気を知らしめるような教育的配慮をしたのではないだろう。

                  ならばどういう意図の起用だったのだろう。

                  高校野球は若い選手たちの元気はつらつはいいがわかりにくいことも多い。

                   

                  ミロシェヴィッチかチトーか

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                    F地区の内紛に近い情報が来てたまらない日々である。

                    そこの地区をしきる若きリーダーに、バルカン半島の政治を引き合いに出して、ミロシェヴィッチにならずチトーになってほしいという苦言を呈した。

                    彼がわかったかどうか知らない。

                     

                    わかっていないとすればたぶん一生懸命になりすぎているのかもしれない。

                    ぼくもとある句会を運営していてはっとしたことがある。

                    ある新人さんが不満だと取りまとめ役から連絡がきた。

                    彼女の出した8句のうち点が入った2句ほどは採った人が意見を言いぼくも総括するのでいいけれど、ほかの6句がどうしてだめか皆目わからないと。

                    はっとした。

                    実は人数が増えたため当初予定していたぼくが全句講評する時間がなくなっていた。

                     

                    ぼくはみんなが発言する時間を優先したのだが新人さんはそれよりぼくの意見を聞きたいという。それを聞いて皆さんの発言機会を減らしてぼくの発言時間を増やした。

                    「発言機会をみんなに」という理想があったのだがそれがいつでも正しいのではないと知った。

                     

                    ケース・バイ・ケースである。

                    ぼくが胸を撫でたのは、その不満情報がすぐにぼくに上がってきたことである。

                    「発言機会をみんなに」には「誰でも意見を述べることができる」ことでもありぼくに上がってきた。不満を言える空気であったこと、それはよかった。

                    これが抑えられていた場合、不満はかのF地区のように原子力事故の汚染水のようにどくどくと清浄なところへ流れ出していたことだろう。

                    自分のテリトリーから不満情報が流れ出すことこそ運営がミロシェヴィッチ化していることなのだ。

                    F地区の若きリーダーはまじめで一生懸命なのだろう。

                    それはいい資質なのだがともするとよそ見をしないために競走馬がかぶる覆面となって左右が見えなくなる。

                     

                    経営はまっすぐ見る力と横のものが目に入る余裕のふたつの能力が要る。

                    それに毎回同じしかたではだめ。深い轍に車輪がはまって自由がなくなることも怖い。

                    常に修正する必要がないか自分で問い、他の意見を容れるふところの深さがなくてはならぬ。

                    F地区の件でかのバルカンにおけるチトー大統領の稀有の偉大さをしのぶとともに、自分が裸の王様になることの怖さを痛感した。

                     

                     

                    ビジンの付加価値

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                      モスクワ世界陸上、棒高跳びでイシンバエワが優勝した。

                      朝起きると妻が「イシンバエワ凄い!」というので、うっかり「美人だよね」と答えるとにわかに機嫌が悪くなった。

                      「あなたが女を見るとき美人か否かしかないの?」と抗議の口調。

                      しまったと思ったときは遅かった。

                      妻ももう還暦。昔ほどくどくど言わなくなって助かった。ふうっ。

                       

                      たしかに俳句をやっているにしては安直な表現だったと反省はするが

                      言いつくろってみても男が女に対するそれを中心にしてそこから大きく外れないだろう。

                      「イシンバエワ凄い」がいちばん問題ない評価であったが妻と同じことは言えぬ。

                      「イシンバエワってもよおすね」でも

                      「イシンバエワってうずうずするね」でも

                      「イシンバエワってときめく!」でも

                      妻はきっといちゃもんをつけただろう。

                      「セクシー」なんてハイウッド映画でよく飛び交う言葉だが、それも妻は喜びそうにない。

                      女との関係は何年たってもむつかしい。

                       

                      この話はミスコンテストの水着審査は男の欲望の所産であるという発展をするだろう。

                      それはそうであるが、男だってそういう外見のみを求めているわけじゃない。

                      世界陸上へ出る女子アスリートの美しさは格別なのだ。

                      砲丸投げのようにボリュームがあっても100m走者のようにスリムでも、競技にふさわしい肉体が輝く。

                      アスリートの美しさは付加価値の裏付けがあって輝いている。

                       

                       

                      炎天を行くや数字を唱えつつ

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                        116・7681、116・7681、116・7681……116・7681

                        と唱えながら太陽の下プールから帰る。

                        プールから上がった15分後の最高血圧・最低血圧・脈拍である。一応ノートに書き留めている。

                        室内プールが自宅から1kmちょっと先にある。国分寺市がゴミ処理の熱で温水にしてくれている。

                        暑さで運動量が足りないので泳ぐ気になった。

                         

                        水泳は好きだがプールの水に弱い。塩素や殺菌剤で鼻と喉の粘膜をやられて上ったあとカタル症状が出る。目の奥がつーんと痛く気持ちが悪く何も手につかなくなる。

                        それで何十年もプールへ入らなかったが運動としての水泳は捨てがたかった。

                        水中にいる時間は30分以内。できるだけ顔を水につけないことでプールと月に2、3回つきあっている。

                         

                        この二つを守ること。

                        よってクロールはしない。平泳ぎは胸と水の抵抗が大きくて疲れる。

                        よって横泳ぎ(伸し)がぼくの泳ぎだ。スピードは出ないが水を立てず人に迷惑をかけない。

                        この泳法は左右対称でないので右でも左でも同じように泳げるように徹底的にマスターした。左右でほぼ同量を泳いでバランスを取る。

                        この横泳ぎ70%に背泳ぎを30%入れ、背泳ぎの半分を内転筋鍛錬に使う。すなわち脚を最大限ひらいて閉じることを何十回かやる。意外に進む。

                         

                        テレビの通販で売っている「レッグマジックサークル」にそうとう惹かれている。たぶん飽きないで使いこなす自信はあるが置く場所が厄介で買っていない。

                        それでその動きを水泳に取りこんだ。

                        内転筋はとても鍛えにくい箇所だし重要な筋肉だ。バレエをやっている妻がよく言う。

                         

                        今日は水中散歩を13分して泳いだ。

                        600ストロークで約700mを23分で泳いだ。

                        しかしなんといっても海がいい。

                        来月関門海峡へ吟行に行く。玄界灘で今年1度の海水浴をしたい。

                        海だと1時間泳いでも鼻も喉もなんともない。逆によくなる。

                         

                         

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